岸朝子さんの食事に関するコラムサンクスデイズ・スタイルでは、さまざまなジャンルの達人たちが団塊世代の毎日をさらに輝かせるヒントをコラム形式でご紹介します。

岸朝子・食コラム|サンクスデイズ・プラチナ

永遠の感謝を、プラチナに刻んで

Thanks Days Style:岸 朝子 食生活ジャーナリスト

ふたりで過ごす時間が長くなるほど、「食」の楽しみは重要な要素。食べるだけでなく、一緒につくる、発見する楽しみ方も提案します。

第2回 良妻賢母が一転、職業婦人に

料理記者として、50年以上第一線で活躍されてきた岸さん。4人の子どもの母であり、家庭の主婦だった岸さんが、1955年に32歳で出版社に入社したことが人生の大きな転機になりました。それ以来、料理の楽しさや食の大切さについての本を作り続け、その後、ご自身の事務所を立ち上げます。今回は、岸さんの人生のターニングポイントにスポットをあてて、お話を伺います。

おいしいものは人を幸せにする
若い頃から、記者になるための勉強や料理の研究をされていたのですか?

私が青春時代を過ごした昭和ヒトケタの時代に、職業女性になるという夢を見ることができたのは、特別な人だけでした。ですので当時の私は料理上手な主婦になろうと思っていたのです。夫とともに敗戦から2年後の1947年(昭和22年)に牡蠣の養殖業を始め、1953年(昭和28年)に事業を手放して東京に出てきました。 この、牡蠣の養殖は私の父・宮城新昌が営んでいたんです。父は健康と食の結びつきに大変注目していました。「食は命に関わることだから、決して手を抜いてはいけない」と母に言っていました。ですから、母はとても料理が上手だったことを覚えています。おいしいものが、人を幸せにすることを感じながら育ちました。

良妻賢母を目指し、進学する
そして、女学校を出てから、女子栄養学園(現・女子栄養大学)に進学されました。これは将来を見越してのことだったのですか?

当時は自分が料理記者になるとは思っていませんでしたし、女性が職業に就くなんてことを考えられる時代背景ではありませんでした。私は良妻賢母になりたかったので、そのための料理の勉強をしたいと思い進学しました。女子栄養学園では、栄養学、生理学など学術的なことと、料理実技を一流の先生に学びました。ここで学んだことは、料理はおいしいだけでなく、バランスやカロリーを考えて体に必要な食品をおいしく食べることが大切であるということです。これは私のライフワークになっています。

戦後は牡蠣の養殖をし、必死に生きる
その後、ご主人とご結婚なさって、良妻賢母の道を歩み始めます。
五井の家の前で。後列左が岸さん。
五井の家の前で。後列左が岸さん。

戦時中にお見合いで初めて出会い、1ヶ月後には結婚していました。当時はそのくらいの早さで結婚していたんですよ。軍人だった主人は一緒に生活してみると、身の回りのことは自分でする手のかからない人でした。しかし、終戦を迎えて、軍人だった主人は失業。父の勧めもあり、千葉の五井に子ども2人を連れ、家族4人で移住して牡蠣の養殖を始めました。獲れた牡蠣を自転車で売り歩いたり、物々交換したり、海苔の養殖を手伝ったり…当時は皆、生きていくのに必死の時代でした。その後、両親が郷里の沖縄に暮らすことになり、弟たちの面倒をみるため東京に住むことになりました。

三次まである入社試験を見事、突破!
専業主婦だった岸さんの人生に大きな転機が訪れたのは、この転居の頃。

たまたま雑誌で主婦の友社の募集広告「料理好きな家庭人求む」という広告を目にして、妹などの薦めもあり入社試験を受けました。主人は牡蠣の養殖をやめてからサラリーマンになっていましたが、当時3人子どもがいて、さらにもう一人生まれる予定だったので、出費がかさむ一方…そこで仕事をして家計の足しにしようと思ったのです。これが32歳のときでした。一次の作文、二次の筆記試験、三次の実地試験がありました。合格通知が届いたときは本当にうれしかったですね。主人も「おめでとう」と我がことのように喜んでくれました。

キャリアアップの背景に、夫の後押しが
そして、4人の子どもを育てながら、フルタイムで料理記者として働く毎日が始まったのですね。

5月に出産して、8月に出社しました。当時小学校4年生だった長女に、乳飲み子だった次男をまかせて働きに出ました。主人はフルタイムで働く私を「仕事場に家庭を持ち込むな」と後押しし、文句を言われたことはありませんでした。主人にはほかにもいろんな意味で、本当に助けられました。

朝出勤、深夜帰宅も、家庭の基盤があってこそ
その後、岸さんは料理記者として、様々なベストセラーを世に送り出すようになります。多忙な日々を過ごされていたと思いますが、家庭と仕事の両立は大変ではありませんでしたか?

朝9時に出勤して、帰りは深夜1時、2時になることもありましたし、徹夜もしました。それでもつらいと思ったことはありません。体は健康でしたし、仕事はとても楽しかった。そして、家庭という基盤があり、その経験が仕事に生かせることが料理記者です。家事をしながら仕事のアイディアが浮かぶこともありました。料理を食べさせたい相手がいるということは、仕事において大きなプラスになるんですね。

指輪をプレゼントされた金婚式
その後、13年勤めた主婦の友社を辞めて、45歳のときに女子栄養大学の出版部に転職し、雑誌『栄養と料理』の編集長になり、その後、食専門の編集プロダクション「エディターズ」を立ち上げ、現在も活躍されています。
雑誌「栄養と料理」時代の家族写真。左端が岸さん。
雑誌「栄養と料理」時代の家族写真。
左端が岸さん。

多忙な日々を過ごしてきた私にとって、支えになってくれたのは忍耐強く、優しく子煩悩な主人の存在です。思春期を迎えた子どもと向き合ってくれたのも主人。お金の管理をしっかりしている主人が、金婚式のときに指輪をプレゼントしてくれました。主人が亡くなった今でも、大切な宝物です。私は自由に生きてきたつもりですが、今考えてみると主人の大きな手のひらの上で生きてきたような気がします。こうして安心できたから、仕事をずっと続けられたように思います。

一族全員が待つ、岸さんのおせち
忙しい中も、年末のおせち料理作りだけは欠かさなかったと伺いましたが、岸家の味を教えてください。

おせちは、子どもたちや孫が今でも楽しみにしていますので、死ぬまで作り続けたいと思っています。内容は、野菜十種と焼き豆腐の煮しめ、りんごかん、きんとん、黒豆、焼き豚など。煮しめは、味も彩りも違うそれぞれの野菜をそれぞれの持ち味を生かして煮てから、盛り合わせたものです。数年前、高熱が出ておせちの準備ができなくなってしまったとき、それを聞きつけた長女の息子の大学生2人が「おせちが食べられないと大変だから」と手伝いに来てくれました。こんな形で、孫たちに味を少しでも伝えられたことを嬉しく思っています。

次回は岸さんに”現代の食”について語っていただきます。

約50年前、料理記者としてキャリアをスタートし、今もなお現役であり続ける岸さんは、戦後の日本の「食」の変遷の証人でもあります。
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岸 朝子 Profile

料理記者歴53年。フジテレビ系列「料理の鉄人」の審査員としても脚光を浴び、適格な批評と「おいしゅうございます」の名ぜりふが評判となる。食べ歩き、器の楽しみ、お取り寄せなど、様々な食を楽しむブームの仕掛け人である。

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